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現代の働けど働けど我が暮らし楽にならず問題とは?短歌の意味や解説も

更新:2019.06.21

「働けど働けど我が暮らし楽にならず」という言葉を聞いたことはありませんか?石川啄木の一握の砂という歌集で歌われた、有名な短歌の一部です。全文は「楽にならざり」「ぢっと手を見る」などの言葉が印象的で多くの現代人の心を掴みます。今回は、そんな働けど働けどの短歌の意味について解説していきます。

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一握の砂の作者・石川啄木とは?

望郷と漂泊の天才歌人として名を馳せた人物

石川啄木とは、望郷と漂泊の天才歌人として名を馳せた人物です。現在の岩手県盛岡市で、父親の石川一禎(いってい)、母親のカツの長男として生まれました。

石川啄木のプロフィール

  • 本名:石川 一(はじめ)
  • 出生地:岩手県南岩手郡日戸村(現在の岩手県盛岡市)
  • 誕生:1886年2月20日
  • 死没:1912年4月13日(享年26歳)
  • 家族構成:父、母、姉、妹

1891年に、通常入学する年齢より1歳早い5歳で渋民尋常小学校に入学します。幼い頃からとても頭が良い子供で成績も優秀でした。順調に勉学に励み、渋民尋常小学校をなんと首席で卒業しました。それから、12歳で盛岡尋常中学校へ入学します。中学校といいますが、現在の岩手県立盛岡第一高等学校に当たります。

この盛岡尋常中学校での出逢いが、天才歌人・石川啄木の原点とも言えます。ここで石川は、後に妻となる堀合節子と、石川の人生を語る上では欠かせない存在となる大親友・金田一京助とも出会うことになります。3年先輩だった金田一から文学の面白さを教わると、石川はその深みにハマり、文学青年へと成長していきました。

文学と恋愛に夢中になっていった思春期

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中学生となった石川啄木は、先輩である金田一京助から説かれる文学に夢中になって行き、有名な文学雑誌『明星』も好んで読んでいました。その中で、歌集『みだれ髪』で有名な与謝野晶子の歌に傾倒し、「自分も将来は文学の道を歩んでいくぞ」と決意するようになります。一方で、節子との初々しい恋も始まりました。

そんな中、石川は15歳になった1901年の12月から1902年にかけて、『岩手日報』への短歌の投稿を始めました。そして、『翠江』というペンネームで掲載もされました。この岩手日報への掲載が、天才歌人・石川啄木が文学家としての歩み出した一歩なのです。

しかし、文学と恋愛に傾倒してしまったことで、学業は疎かになりました。授業をサボることが多くなったり、果てはテスト中にカンニングなどの不正を働いたことで、石川は優等生という立場から退学へと追い込まれ行ってしまいます。その末に、石川は1902年11月10日に、なんと与謝野晶子を訪ねる為に上京しました。

家族を放って単身で各地を放浪した青年期


石川啄木は、上京したものの就職先が見つからずに住む家すら侭ならず、挙句に結核にかかってしまった為に、1903年2月に父親に連れられて盛岡へ帰郷しました。そこでまた、石川は節子との恋愛の中で心癒されてゆき、また筆を取ります。

17歳で『明星』にて短歌を掲載、その他でも岩手日報で評論を連載するなどの仕事を持つようになります。そして、19歳で発表した短歌『あこがれ』で一気に注目を浴び、天才詩人と呼ばれました。そんな時に、苦しい時に支えてくれた節子との恋を実らせ結婚することになりました。

しかし、石川の結婚式のドタキャンから始まり、二人の結婚生活は石川の自由奔放さにより波乱万丈なものとなりました。貧困生活にも関わらず、石川は新しい環境を求め単身で北海道へ住んだり、その後も文筆家として成功するために、22歳で再度上京しました。

酒・女・旅などの享楽に更けながらも名作を発表していく

石川啄木は再度上京したものの、文筆家一本だけではまだまだ生活出来ませんでした。そんな中で、中学校時代からの大親友・金田一京助を頼りながら、ひたすらに作品を何本も書き続けました。しかし、やはりなかなか評価されずに苦悩の日々を送ることになります。

そんな中でも、1910年に石川は有名な歌集『一握の砂』を発表し、プロの歌人として少しずつ歩き出していました。しかし同時に、友人たちに借りた金で花街に繰り出し、媚妓との遊びに興じたり、飲み歩いたりと享楽に更けるようになります。親友の金田一京助を含め約60人に借金をしていたと言われています。

しかも石川は、その時期の日記を妻にバレないようにローマ字で書いていたとのことです。才女だったという節子がそれを読んだのかは今でも不明ですが、後ろめたいことをバレそうな方法で残しておくなんて、石川啄木は今で言う『ダメ男』だったのかもしれません。下記の記事では、そんなダメ男についてまとめていますよ。

働けど働けどで有名な短歌の全文は?

働けど働けど我が暮らし楽にならずの全文|『一握の砂』より

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#石川啄木 #岩手公園 #散歩

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紆余曲折あった啄木ですが、後世に名を残す足掛かりのひとつとなった『一握の砂』に、あの有名な「働けど働けど我が暮らし楽にならず」の一説が連ねられています。


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はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る 引用元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

飾り気の無い言葉が印象的で、憧れだったはずの東京での、シビアな暮らしの中で綴られたことが分かる歌です。その時の石川啄木の心境が伝わってきます。

石川啄木が『望郷と漂泊の天才』と呼ばれることが分かる歌

類まれなる歌人としての才能を持ちながら、私生活は遊びによる多額の借金と全国各地を渡り歩く波乱万丈なものでした。家族を顧みずに、自分の感情の赴くままに歌を書き綴り、生活のためにいくつもの小説を書くもののお金にならないこともありました。憧れていた東京での、貧しく歯がゆい生活が長く続きます。

成功したいと願い夜も働くものの、一向に生活は良くならない。そんな心情を歌った、石川啄木のこの歌は、現代人の心にも刺さるものがあります。

働けど働けど我が暮らし楽にならずの解説・意味は?

働けど働けど我が暮らし楽にならずの解説・意味①歌が出来た背景

「働けど働けど我が暮らし楽にならず」の元の歌が入った『一握の砂』は、1910年に発表されました。石川啄木は、家族を北海道に置いたままで、東京で文芸家としてのキャリアを少しずつ積んでいましたが、なかなか貧困生活からは抜け出せませんでした。そんな中で発表されたのがこの歌です。

働けど働けど我が暮らし楽にならずの解説・意味②込められた思い

働けど働けどの元の歌の全文である「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」に込められたのは、いくら身を削るように働いても、生活苦に終わりが来ない。そんな中で、働く自分の手をじっと見つめる。という意味です。この歌からは、焦りと虚しさがじんわりと伝わってくるようです。


この「働けど働けど」の歌は『一握の砂』の中の一節です。一握の砂は、テーマごとに5章からなる短歌集です。この短い文章で連ねられる言葉は迷いが無く素直で、当時の石川啄木の心情が伝わってきます。現代人こそ共感出来る歌だからこそ、SNSなどでも根強い話題になっています。

働けど働けどの短歌は、働いても働いても見合った評価をされず、将来への不安も拭いきれない若い世代の間で話題となっています。また、SNSやネットで溢れたことによる現代独特の人間関係での疲れ、家族関係の疲れと色々ありますよね。下記の記事では、そんな疲れから癒されたいという人に向けた対処法をまとめています。

「働けど働けど」状態である現代社会の問題は?

『働けど働けど我が暮らし楽にならざりぢっと手を見る』に共感する若者世代

「働けど働けど我が暮らし楽にならず」の歌は、若者世代を中心に現代でも親しまれています。過剰な残業や負担の大きい仕事をこなしたり、働いても働いてもそれに見合った見返りを得ることが出来ないという、この歌を詠んだ当時の石川啄木と同じ境遇の人々が増えているからとも言えます。

夢のためにどれだけ頑張っても、評価を得ることが出来ないことに加え生活は苦しくなる一方で、やがて疲れ果てて夢や希望を捨ててしまうという若者は少なくありません。それだけでは無く、命を絶ってしまう人もいます。

存命の時になかなか評価されず、遊興による多額の借金を背負いながら貧困生活を送っていた石川啄木の働けど働けどの歌は、石川と似た境遇の人や切迫した生活を送る若者の心を掴んで話しません。そして、この歌が世に出回れば出回るほど、日本が抱えるある問題が浮き彫りになっていくのです。

働けど働けどの短歌により浮き彫りになるワーキングプア問題

「働けど働けど我が暮らし楽にならず」の歌は、現代の世の中に溢れるある問題を捉えた短歌とも言えます。それは、『ワーキングプア』問題です。耳にすることは多いけれど、意味はよく分からないという方も多いのではないでしょうか?ワーキングプアの解説は下記となっています。

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ワーキングプア(英:working poor)とは、貧困線以下で労働する人々のこと。「働く貧困層」と解釈される。「ワープア」と省略されることがある。 引用元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

ワーキングプアは、派遣社員や契約社員、またはアルバイトの人々にのみ適用されることかと思われがちですが、雇用形態はあまり関係ありません。現代は、正社員でも生活の困窮に悩まされている人も増えています。頑張っても頑張っても、なかなか給料が上がらず支出は増える一方だという人が増えているんです。

日本は、アメリカと同じ資本主義の国です。そこから来た、『個人の選択は自己責任』という方針により、お金を持っている人はもっとお金持ちになり、貧困に喘いでいる家庭はどんなに頑張っても貧しさから抜け出せないという負のスパイラルが起きてしまっています。

『ぢっと手を見る』だけではなくその手を使って現状を変えるしかない

「働けど働けど」については様々な解説がありますが、元の原文である『はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る』は、身を削っても困窮した生活から抜け出せなかった、石川啄木の当時の心境が率直に歌われた短歌と言われています。『ぢっと手を見る』という言葉が印象的ですよね。

『ぢっと手を見る』という最後の言葉からは、もうこれ以上どうしていいか分からずに手をじっと見つめるしかないという、石川の姿が目に浮かぶようです。しかし、そんな状況を変えるには『ぢっと手を見る』だけではなく、自分のその手を使って頑張るしかない、というのが日本の現状です。

ワーキングプアと呼ばれる人々は、色々な基準はありますが一般的には「年収が200万円以下の人」を指すことが多いですが、直近10年で、なんと300万人も増加しています。決して珍しい話とは言えない問題です。その層から抜け出すためには、なんとか『ぢっと手を見る』ことを辞めなければいけません。

『楽にならざり』という状況から抜け出す志を持とう

『働けど働けど 猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る』という短い短歌には、ワーキングプアと呼ばれる人々のリアルな状況が映し出されています。そんな中で、希望を持つというのは難しい話ですが、現状の日本ではワーキングプアに対して対策が取られていない状況です。

そんな中で、『働けど働けど 猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る』の歌のように、自分の手をじっと見ているだけではずっとそのままの状況になってしまうのです。『楽にならざり』という生活から抜け出すには、『ぢっと手を見る』のをやめて、自分で動き出せるようになんとか志を持ちたいものですね。

働けど働けどの本当の意味を知って生活に役に立てよう!

今回は『働けど働けど我が暮らし楽にならず』の全文や、解説・意味などについてご紹介していきましたが、いかがでしたでしょうか。石川啄木の生い立ち、人生を踏まえた上で紐解いていくと、現代の人々の心にも通じるものがありますよね。

この『働けど働けど我が暮らし楽にならず』の短歌のように、悩んでいる方も少なくないと思います。しかし、『ぢっと手を見る』だけではなく、自分のその手で未来を切り開いて『楽にならざり』という状況から抜け出せるように志を持ちたいものですね。

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