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奥の細道ルートとは?松尾芭蕉が旅した有名な俳句の場所を地図で解説!

更新:2019.06.21

江戸時代前期の俳諧師、松尾芭蕉の奥の細道ルートや旅先で俳句を詠んだ場所をご存知ですか?「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人成」は、奥の細道の有名な序文です。奥の細道を辿る旅が現代でも人々に愛されているのには理由があります。今回は、芭蕉の人物像や俳句を詠んだ場所の地図などをご紹介します。

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奥の細道とは?松尾芭蕉とは何者?

奥の細道とは|「月日は百代の過客にして」の序文で始まる紀行文

奥の細道は、「月日は百代の過客にして」の序文で始まる松尾芭蕉の紀行文です。1689年(元禄2年)に江戸を出発し東北、北陸を巡った記録をまとめた書で、1691年(元禄4年)に江戸に戻りました。全行程約600里(2,400km)、約150日間の旅です。1日に50kmも移動する日があったと言われています。

車や電車、飛行機が無い時代に旅をするということは、庶民の旅行は徒歩です。当時は関所(税の徴収や検問をする施設)を越えなければならず、気軽に旅に出かける人は多くありませんでした。そんな時代に東北、北陸を徒歩で旅をした人物が松尾芭蕉なのです。

POINT

奥の細道について

奥の細道は、正確には「おくのほそ道」と表します。松尾芭蕉は、漢字と仮名の使い分けに厳しい人で、自署するときは仮名書きで「はせを」と記すことが多く、署名も「おくのほそ道」と記しました。

松尾芭蕉とは①日本史上最高の俳諧師として有名な人物

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【来たぜ東北弾丸🚘ドライブ旅行⭐️平泉・中尊寺金色堂】 五月雨の 降り残してや 光堂 行くぜ東北2018🚘 来たぜ平泉。 来たぜ中尊寺金色堂。 みちのくの黄金郷。 世界文化遺産の平泉。 そだねー😇 松尾芭蕉翁が、ここ中尊寺金色堂を訪れたのは初夏。 😎おいらは秋深まる11月6日。 ガビチョス❗️まじ卍🚘 奥州藤原氏四代が眠る阿弥陀堂が、初代清衡公により建てられた金色堂だ。 ななにー💰 黄金文化の中心地だ。マルコポーロが夢見た黄金郷ジパングを象徴する一つかも知れない。 72かのナニかの何⁉️ 朝一番で、9枚目の写真、ガランとした町営駐車場に愛車ベンツSLKを停め、月見坂を登って行くに従い、ほぼ900年の時を遡って行くかの様な錯覚に陥入る。 芭蕉翁を始め、多くの文人たちを誘ったのは、まさにこの凛とした静寂さではないだろうか。 重要文化財の旧覆堂の中に、幻の光り輝く金色堂を見た様な気がした。 今は、新覆堂の中で、新たな眠りについている。 源義経公は、夢破れ傷心の中、弁慶さんを初めとする少数の腹心部下に護られて、父と慕う秀衡公を頼って安寧の地へと落ち延びて来たが、ここ平泉衣川館で無念の業火の中で亡びる。 夏草や 兵どもが 夢の跡 昨日(5日)は、会津若松の坂本コレクションさんから送ってもらった会津塗のプレゼントが届いた、大切にしますって、友人からメールが来た。喜んでもらえて、ちょっと嬉しかった😊 小さな幸せが、大きな幸せになる。 😎おいらの夢は、はたして叶うのだろうか。 笑顔ノムコウ明日はある🙂 明日は、どっちだ‼️ #来たぜ東北、#東北弾丸ドライブ旅行 #行くぜ東北2018 、#来たぜ平泉、#黄金郷 #中尊寺金色堂、#松尾芭蕉、#奥州藤原氏 #ジパング、#五月雨の降り残してや光堂 #そだねー、#マルコポーロ、#月見坂、#金色堂 #旧覆堂、#世界文化遺産、#ガビチョス #新覆堂、#まじ卍、#ななにー、#秋深い #72かのナニかの何、#初夏、#けしからん風景 #源義経、#夏草や兵どもが夢の跡 #弁慶、#笑顔ノムコウ明日はある #明日はどっちだ

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松尾芭蕉について1つ目は、日本史上最高の俳諧師として有名な人物であるということです。俳聖松尾芭蕉は、1644年(寛永21年)に三重県上野市(現在の伊賀市)の松尾家に誕生し、金作と名付けられました。聡明で意志の強かった少年は、19歳の頃から俳句をたしなみ、29歳で伊賀国を離れます。

俳諧師として身を立てるために江戸へ向かい、人脈と活動の場を広げ才能を開花させていきます。俳諧宗匠となった芭蕉でしたが、生活が苦しく俳句の指導だけでは生活できず、水道工事の事務をして生計を立てます。37歳で俳諧師の稼業を捨て隠者の道を選び、江戸深川に居を移しました。

俳諧を愛するよりも弟子の数を競い合う宗匠生活に見切りをつけた芭蕉は、文学と生活を一体化した俳諧道を目指します。無収入の道を選んだ師を弟子たちは心から喜び、生活の支援を惜しみませんでした。安住していた草庵を捨てた芭蕉は、弟子の河合曾良(かわいそら)と旅に出ます。各地を巡りながら俳句を詠んでいきました。

松尾芭蕉とは②忍者説がある謎多き人物

松尾芭蕉について2つ目は、「松尾芭蕉は、実は忍者だったのではないか」という説があるということです。冒頭でも触れましたが、奥の細道は、移動距離約2,400kmで、日程は約150日と言われています。1日あたりの移動距離を割り出すと16kmになります。

宿泊や休憩で移動しなかった分を取り戻すためとはいえ、1日に50kmも歩いたというのはかなり大変なことなのです。当時は人生50年と言われていた時代で、40歳を超えれば老人扱いをされていました。45歳の松尾芭蕉はかなりの健脚ぶりだったとうかがえます。

これほどの距離を1日に歩くのは無理があると考えられており、謎に包まれています。歩く速さだけではなく、奥の細道の出発日や天気など、同行者である曾良の日記と比べると齟齬が多いことも謎の一つです。伊賀で生まれた百姓出身の芭蕉が苗字を名乗ることができた当時の背景や芭蕉の移動した速度等から忍者説があるのです。

松尾芭蕉とは③幕府公認の密偵説がある謎多き人物

松尾芭蕉について3つ目は、「松尾芭蕉には幕府公認の密偵説がある」ということです。旅に何度も出られるほどの資金源や通行手形の出所について疑問視されています。奥の細道では、仙台にこだわりのあった芭蕉ですが、実は松島では一句も詠んでいないのです。

有名な「松島やさて松島や松島や」の句は「さて」の部分が「ああ」に変わり現代に伝えられていますが、芭蕉の詠んだ句ではないことが濃厚です。芭蕉はというと、美しさのあまりに句が詠めなかったと記されています。

同行者の曾良が詠んだ句が「松島や鶴に身をかれほととぎす」です。仙台は伊達政宗の領地であったことは有名ですが、幕府から仙台藩への偵察を条件として旅を許されたのではないかという説があります。芭蕉は松島ではなく伊達政宗ゆかりの寺である「瑞巌寺(ずいがんじ)」を隅々まで見学したと伝えられています。

関東編|奥の細道ルートとは?地図は?

関東地方編|奥の細道ルートと地図①東京都「深川」から栃木県「日光」

関東編の奥の細道ルート・地図1つ目は、東京深川から栃木日光までの道のりです。松尾芭蕉は、1689年(元禄2年)3月27日に弟子の川合曾良と奥の細道の旅に出発します。「草の戸も住み替は(わ)る代ぞ雛の家」この句を挨拶の句とし、小家の柱にかけて新しい住人への挨拶の代わりとしたそうです。

「行く春や鳥啼(な)き魚(うお)の目は涙」これは旅の最初の句です。その後、草加(埼玉県)の宿場にたどり着きます。旅の初日から肩にめり込む携行品の重さに困ったそうです。当時の旅の携行品は、野宿の旅の備えも必要とし、荷物を減らしてもその重さはずしりと肩にこたえました。

室の八島明神(栃木県の大神神社(おおみわじんじゃ))で参拝後、日光に到着します。「あらたふ(とう)と青葉若葉の日の光」と詠みますが、日光と言えば連想する東照宮や家康も見えない句になっています。芭蕉はどんな真意だったのでしょう。

関東編|奥の細道ルートと地図②栃木県「栃木那須」から「蘆野の柳」

関東編の奥の細道ルート・地図2つ目は、那須野から黒羽、雲巌寺、殺生石、蘆野の柳(あしののやなぎ)までの道のりです。芭蕉一行は日光から黒髪山を経由し那須野へ向かいます。黒髪山では曾良が句を詠みました。黒羽に着いた芭蕉は、黒羽に2週間ほど滞在し「夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな」と句を詠みました。


黒羽滞在中、雲巌寺にいる芭蕉の師「仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)」を訪れ、「木啄(きつつき)も庵(いお)は破らず夏木立」と詠みます。その後、黒羽から殺生石(せっしょうせき)へ馬に乗って出かけます。馬を引く従者から一句頼まれ、「野を横に馬引き向けよほととぎす」と詠みました。

芭蕉は、最も敬愛する西行法師(さいぎょうほうし)が立ち寄った蘆野の柳へやっと訪れることができ、「田一枚植えて立ち去る柳かな」と一句詠みます。感無量の思いで柳のもとを立ち去ります。

東北編1|奥の細道ルートとは?地図は?

東北編1|奥の細道ルートと地図①福島県「白河の関」から「信夫の里」

東北編の奥の細道ルート・地図1つ目は、白河の関、須賀川、浅香山、信夫の里(しのぶのさと)までの道のりです。古歌の名所である白河の関では、曾良が俳句を詠みます。芭蕉は、次に訪れた須賀川で、白河の関では古歌や故事をしのぶのに精いっぱいで作句の余裕がなかったと記しています。

須賀川では、宿場で長をつとめる俳人の等窮(とうきゅう)という人物を訪ね、8日間留まります。須賀川で芭蕉は「風流の初めや奥の田植え歌」と詠み、宿場近くの等窮の友人である俳人らと交流を深めます。そこでは「世の人の見つけぬ花や軒の栗」と詠んでいます。

芭蕉は、浅香山(安積山)の宿場に泊まり、古典の世界で有名な「しのぶもじ摺り石」を訪ねますが、石が無残に放置されていたため期待外れに終わります。そこでは「早苗とる手もとや昔しのぶ摺り」と詠みました。

東北編1|奥の細道ルートと地図②福島県「飯塚の里」から宮城県「岩沼」

東北編の奥の細道ルート・地図2つ目は、福島県にある佐藤元治の菩提寺である瑠璃光山医王寺、飯坂温泉、笠島(宮城県名取市)までの道のりです。瑠璃光山医王寺(るりこうざんいおうじ)では、「笈(おい)も太刀(たち)も五月に飾れ紙昇幟(かみのぼり)」と詠んでいます。

「五月の端午の節句も間近で、あちこちで紙製のこいのぼりが泳いでいる。義経の太刀や弁慶の笈も一緒に飾ってほしい」という内容です。その後、飯坂温泉で一夜を過ごしますが、激しい雷鳴を伴う雨に目が覚め、蚤や蚊に食われ、腹痛を起こすなど最悪な一夜を過ごします。宮城県白石市の城下町を通り、笠島に入ります。

笠島では、「笠島はいづこ五月のぬかり道」と詠んでいます。藤原実方(ふじわらのさねかた)の遺跡を訪ねようとした芭蕉でしたが、五月雨の悪路にはばまれ断念します。無念さがにじみ出ている句と言われています。

東北編1|奥の細道ルートと地図③宮城県「岩沼」から「仙台」

東北編の奥の細道ルート・地図3つ目は、宮城県岩沼から仙台までの道のりです。岩沼では、古歌で有名な「武隈の松」を訪れ、「武隈の松見せ申せ遅桜」「桜より松は二木(ふたき)を三月越し」と詠みました。この句は、有名な歌枕、武隈の松が昔の姿であることに感激し、喜びを表現していると言われています。

そして、芭蕉一行は伊達家62万石の城下町仙台にちょうど5月端午の節句の日に到着し、伊達政宗が再興した薬師堂、天満宮を参拝します。「あやめ草足(ぐさあし)に結ばん草鞋(わらじ)の緒」という句を詠んで旅の健脚を祈りました。

東北編1|奥の細道ルートと地図④宮城県「多賀城」から「石巻」

東北編の奥の細道ルート・地図4つ目は、多賀城、塩釜、松島、石巻の道のりです。壺の碑(つぼのいしぶみ)多賀城出土の石碑を訪れ、塩釜で浄瑠璃を聞き、塩釜神社に参拝します。船で松島に渡り、松島の美観を記します。前述しましたが、松島では曾良が句を詠みます。


芭蕉は、松島で瑞巌寺を参拝します。紀行文には11日と記されていますが、曾良の随行日記によると正しくは9日に松島に到着した後、瑞巌寺に参拝しています。芸術性を高めるために意図的に順序を入れ替えたのではないかと言われています。平泉を目指し松島を出発した一行は、石巻に立ち寄り翌日平泉に到着します。

東北編2|奥の細道ルートとは?地図は?

東北編2|奥の細道ルートと地図⑤岩手県「平泉」から山形県「山刀伐峠」

東北編の奥の細道ルート・地図5つ目は、岩手県平泉から、山形県山刀伐峠(なたぎりとうげ)までの道のりです。平泉は、源義経の悲劇の舞台であり、奥州藤原三代(清衡、基衡、秀衡)の栄枯盛衰の舞台です。義経をかくまったことなどもあり、4代泰衡の時に源頼朝に攻められ滅亡します。

平泉にある中尊寺金色堂には、藤原三代の遺体と泰衡の首が葬られています。芭蕉の旅の目的は、大悲劇の死者の霊を慰めることにあったと言われ、旅の最大の目的地「平泉」に到達しました。芭蕉はここで死者の霊の慰める一章を執筆します。「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」「五月雨の降り残してや光堂」

平泉を出た芭蕉は、山越えをして出羽の国(山形県、秋田県)を目指します。山中で宿を借りますが、風雨により3日間留まります。「蚤(のみ)虱馬(しらみうま)の尿(ばり)する枕もと」と詠みました。そして、山刀伐峠という名の険しい山道をたくましい青年に道案内してもらい、無事に越えます。

東北編2|奥の細道ルートと地図⑥山形県「尾花沢」から「立石寺」

東北編の奥の細道ルート・地図6つ目は、山形県尾花沢から、立石寺までの道のりです。尾花沢では、旅人の心情をよく理解している紅花問屋を営む清風という俳人を訪ね、もてなしを受けます。清風に挨拶の句として、「涼しさをわが宿にしてねまるなり」「這い出でよ飼屋(かいや)が下の蝉(せみ)の声」

「眉(まゆ)履きを俤(おもかげにして紅粉(べに)の花」と、詠みます。恐怖の山越えから一転し、なごやかな場面に切り替わります。芭蕉はここで10日間ほど世話になり、清風の句会に参加するなどして旅の疲れを癒します。そして、清風の勧めにより、尾花沢から引き返し30km離れた山寺(立石寺)へと向かいます。

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#山寺#山形#紅葉#立石寺#奥の細道#芭蕉

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「閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉(せみ)の声」(夕暮れの中に静まり返った静寂の中で、蝉の声だけが岩にしみ通るように聞こえてくる)素晴らしい風景の中、ひっそりと静まり返った本堂で拝むことができ、心が澄み渡るのを感じた松尾芭蕉。静寂感のある素晴らしい句ですね。

東北編2|奥の細道ルートと地図⑦山形県「最上川」から「坂田」

東北編の奥の細道ルート・地図7つ目は、最上川から坂田までの道のりです。芭蕉は、最上川を船で下ろうと思い晴天を待ちます。その間、土地の人に頼まれて俳諧指導をします。「五月雨をあつめて早し最上川」と、詠みました。(急流の最上川が五月雨を集めて増水し、すさまじい勢いで流れ下っている)という内容です。

6月、芭蕉は出羽三山の羽黒山(はぐろやま)で3日間を過ごします。出羽神社の住職にもてなされ、催された連句会で句を詠みます。「ありがたや雪をかをらす南谷」出羽三山(でわさんざん)は、羽黒山と月山(がっさん)湯殿山(ゆどのやま)の総称です。続いて、芭蕉は、月山、湯殿山を訪れます。

三山を参拝した句を短冊にしたためます。「涼しさやほの三日月の羽黒山」「雲の峰いくつ崩れて月の山」「語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな」羽黒山を出発した芭蕉は、鶴岡市の城下町に入り、船で坂田に下ります。「あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて夕涼み」「暑き日を海に入れたり最上川」と詠みました。

東北編2|奥の細道ルートと地図⑧秋田県「象潟」から「市振の関」

東北編の奥の細道ルート・地図8つ目は、秋田県にかほ市の象潟(きさかた)、市振の関(新潟県糸魚川市)の道のりです。待望していた日本海の名勝象潟に到着した芭蕉は、言葉を豊かに表現した句を詠みます。

「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」「汐越(しおごし)や鶴脛(つるはぎ)ぬれて海涼し」翌朝、能因島や西行ゆかりの桜の老木、神功皇后のお墓を訪ね(蚶満寺(かんまんじ)から象潟の全景を見渡したと言われています。


長旅の疲れがが見えてきた芭蕉でしたが、「文月(ふみづき)や六日も常の夜には似ず」「荒海や佐渡に横たふ天の河」と詠みました。悲しい歴史を秘めた佐渡に対する思いが感じられます。市振の関では、伊勢参りをする遊女と泊まり合わせ、「一(ひと)つ家(や)に遊女も寝たり萩の月」と詠みます。

北陸編|奥の細道ルートとは?地図は?

北陸編|奥の細道ルートと地図①富山県「黒部川」から石川県「多太神社」

北陸編の奥の細道ルート・地図1つ目は、富山県黒部川から石川県多太神社までの道のりです。芭蕉一行は、黒部川を渡り、那古の浦から加賀の国に入ります。加賀の国へ入る挨拶をかねて「早稲(わせ)の香(か)や分け入る右は有磯海(ありそうみ)」と詠みました。

金沢では、若くして亡くなった愛弟子である一笑への追悼句として「塚も動けわが泣く声は秋の風」「秋涼し手ごとにむけや瓜茄子(うりなすび)」「あかあかと日はつれなくも秋の風」「しをらしき名や小松(こまつ)吹く萩薄(はぎすすき)」と、句を詠みます。芭蕉の寂しい心境が伝わってきます。

その後、石川県小松市にある多太神社を参拝します。平家の武将斎藤実盛の遺品である兜などが納められている神社です。ここで芭蕉は哀悼の句を捧げます。「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」

北陸編|奥の細道ルートと地図②石川県「那谷寺」から「全晶寺」

北陸編の奥の細道ルート・地図2つ目は、石川県那谷寺から全晶寺までの道のりです。芭蕉は、小松から山中温泉へ行く途中で立ち寄った那谷寺に参拝します。「石山の石より白し秋の風」と詠みました。山中温泉で入浴し、まだ14歳の宿屋の主人、久米之助に挨拶の句を詠みます。「山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ」

旅に同行し、寝起きを共にしていた曾良は、病になり静養のため三重県伊勢市へと向かいます。一人旅をしなければならなくなった芭蕉は、苦渋に満ちた心境がにじみ出ている句を詠みます。「今日(きょう)よりや書付(かきつけ)消さん笠(かさ)の露(つゆ)」

加賀市の外れにある全晶寺(ぜんしょうじ)という禅寺に泊まった芭蕉は、曾良と別れて眠れぬ夜を過ごしました。翌朝、「庭掃(は)きて出(い)でばや寺に散る柳」と、即興の句を詠み、寺をあとにします。

北陸編|奥の細道ルートと地図③福井県「汐越の松」から終着「大垣」

奥の細道の旅も終着地点が近づいてきました。北陸編の奥の細道ルート・地図3つ目は、福井県あらわ市(汐越の松)から執着の岐阜県大垣までの道のりです。加賀と越前の国境である吉崎の入り江から船に乗った芭蕉は汐越の松(しおごしのまつ)という場所を訪れ、その後古くからの知人である天龍寺の住職や永平寺を訪れます。

ここまで見送ってくれた金沢の俳人である北枝(ほくし)へ、一句を贈り別れました。「物(もの)書きて扇引きさくなごりかな」その後、旧友宅を訪れ、敦賀の港で宿をとり気比神宮へ参拝します。「月清し遊行(ゆぎょう)の持てる砂の上」「名月や北国(ほっこく)日和定めなき」と詠みます。

敦賀の回船問屋、天屋の接待で色の浜で遊び、感謝の意を込めて二句詠みました。「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」「波の間(ま)や小貝にまじる萩の塵(ちり)」大垣に入り、曾良が静養先の伊勢から戻ります。伊勢神宮の遷宮を拝観しようと船に乗って、「蛤(はまぐり)のふたみに別れ行く秋ぞ」で奥の細道は幕を閉じます。

POINT

結びの地の背景

芭蕉にとっての旅の終わりは、新たな旅の始まりでもありました。永遠に旅を続ける芭蕉の姿がこころに浮かんできます。「行く春ぞ」で始まり、「行く秋ぞ」で旅を終えます。

奥の細道ルートのおすすめの観光スポットは?

芭蕉が俳句を詠んだ場所を旅しよう!おすすめ観光スポット①立石寺

芭蕉が俳句を詠んだ場所のおすすめ観光スポット1つ目は、山形県の立石寺です。芭蕉はここで有名な句「閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉(せみ)の声」を詠みましたね。立石寺は、千年以上続く由緒あるお寺で、観光客に人気の場所です。1000段以上ある石段を超えた先の絶景がおすすめです。

芭蕉が俳句を詠んだ場所を旅しよう!おすすめ観光スポット②大垣

芭蕉が俳句を詠んだ場所のおすすめ観光スポット2つ目は、奥の細道のむすびの地として有名な場所、岐阜県大垣市です。桜の名所としても有名なスポットです。ゆかりの地を巡る旅のクライマックスを大垣で迎えるのもいいですね。

芭蕉が旅した場所|おすすめ観光スポット③松島

芭蕉が旅した場所のおすすめ観光スポット3つ目は、松島です。松島では芭蕉は句を詠みませんでしたが、訪れるのを楽しみにしていた場所です。日本三景の一つである松島は絶景を楽しむことができる場所です。瑞巌寺や円通院の観光もおすすめです。

ゆかりの地で時代を感じよう!おすすめ観光スポット④平泉

平安時代末期、奥州藤原氏初代清衡が平泉を創建しました。築き上げられた文化遺産は、約100年にわたり現在も大切に守られています。2011年には、中尊寺や毛越寺(もうつうじ)、金鶏山(きんけいざん)などが世界遺産に登録されました。松尾芭蕉のゆかりの地で有名な場所、平泉を歩いて歴史を感じてみましょう。

下記の記事では、岩手県の絶景スポットをランキングで紹介しています。観光におすすめの美しい景色を楽しめる場所などをまとめていますので、ぜひ参考にしてみてくださいね。

奥の細道ルートを旅した際に買いたいおすすめのお土産は?

奥の細道ルートのお土産おすすめ①Fire-Kingスタッキングマグ

奥の細道ルートのお土産おすすめ1つ目は、「Fire-Kingスタッキングマグ」です。あのFire-Kingから芭蕉がイラストされた可愛いマグが発売されています。東京・深川地域のイラストマップをデザインしたものです。芭蕉は、深川の庵に拠点をおいて活動していましたね。旅のスタート地点のお土産に!

Fire-King スタッキングマグ [深川マップ] | Fire-King Japan オフィシャルサイト

奥の細道ルートのお土産おすすめ②奥の細道むすびの地記念館

奥の細道ルートのお土産おすすめ2つ目は、奥の細道むすびの地記念館でのお土産です。芭蕉庵では、「芭蕉銘茶水都」や「松尾芭蕉翁ゆかりの地のはがき」「俳聖かるた」「芭蕉さんのむすび米」など、お土産が豊富な場所です。ぜひ、訪れてみてはいかがでしょうか。

奥の細道むすびの地 大垣地域物産館芭蕉庵

以下の記事では、岐阜県で人気のお土産をランキングで紹介しています。名物のお菓子には、どんな人気商品があるのでしょう。ぜひ参考にしてみてくださいね。

松尾芭蕉や奥の細道ルートに関して詳しく学べるおすすめの書籍は?

おすすめ!奥の細道ルートに関して学べる本①おくのほそ道―現代語訳

おすすめ!奥の細道ルートに関して学べる本1つ目は、「おくのほそ道―現代語訳/曽良随行日記付き」です。 角川ソフィア文庫は、奥の細道を学びたい!というはじめての方にも読みやすいと人気の文庫です。曽良随行日記も付いていますので、何度も読み返して楽しめます。

おすすめ!奥の細道ルートに関して学べる本②芭蕉おくのほそ道

おすすめ!奥の細道ルートに関して学べる本2つ目は、「芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄」です。岩波文庫から出版されている本です。巻末に「芭蕉宿泊地及び天候一覧」が載っていますので、句を詠んだ時の天気がわかります。本をもって、ルートを巡る旅におすすめの1冊です。

松尾芭蕉が旅した奥の細道を辿ってみよう!

今回は、俳聖松尾芭蕉が旅した奥の細道のルートについて、場所や地図、俳句などをご紹介しましたが、いかがでしたか?芭蕉が旅したルートを巡る旅は、現代においても人気が続いています。魅力あふれる松尾芭蕉が歩いた奥の細道。ぜひ、景色を楽しみながら辿ってみましょう!

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