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【融通招福の神様】毘沙門天とは?七福神のご利益・由来・逸話・意味まとめ

更新:2019.06.21

毘沙門天には四天王、七福神などの顔もあります。戦いの神としてだけではなく、家内安全や受験合格、交通安全、商売繁盛、夫婦和合など様々な面でのご利益も期待できます。毘沙門天の由来や逸話などを画像も交えながら見ていきたいと思います。

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七福神の一人・毘沙門天とは?

インドから中国での毘沙門天

毘沙門天の前身はクベーラと言う財宝の神様です。ヴァイシュラヴァナと言う称号があり、これは父親であるヴィシュラヴァス神の息子という意味があります。元々は財宝の神様だったのですが、中央アジアから中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、そして、四天王の一尊として武神や守護神とされるようになりました。

中国から日本へ

ヴァイシュラヴァナを中国で書き写したものが毘沙門天ですが、よく聞く所の者、という意味も持ち合わせており、多聞天との記されました。日本では四天王の一尊として祀られる場合は多聞天、独尊として祀られる場合は毘沙門とするのが通例です。民間での毘沙門天信仰は、平安時代の鞍馬寺から始まりました。

現在の毘沙門天・七福神として

かつて毘沙門天は、恵比寿天や大黒天と並ぶ福の神としての人気を誇っていました。室町時代の終わりごろには日本独自の七福神の一尊とされ、江戸時代以降は勝負事や金運にご利益があると崇められるようになりました。

七福神には他にも、知恵や芸術の弁財天、幸福の福禄寿、笑門来福や子宝の布袋尊、商売繁盛の恵比寿天、財宝の大黒天、長寿延命の寿老人がいます。布袋尊については下記の記事も参考にしてみてください。

毘沙門天のご利益

戦いの神の由来

喧嘩している男性

毘沙門天と言うと戦いの神、勝負事に強いイメージがあります。これは四天王の中でも最も強い神様とされているためで、実際に戦国時代なのでは多くの武将が毘沙門天を信仰していたと言います。毘沙門天像も甲冑を身にまとっていますし、お顔もちょっと怖い印象があって敵を圧倒する強さが見られます。

金運ご利益の神

貯金箱にお金を入れる女性

毘沙門天は元々は財宝の神様ですので金運アップのご利益があります。また、昔よりムカデは毘沙門天の使いとされています。ムカデのたくさんある足で福を呼び寄せるとされ開運や招福をもたらすことでも知られています。毘沙門天が祀られている所でムカデを見ると、もしかすると金運面でよいことがあるかもしれません。

難を避け福を与える七福神

嫉妬する女性

幸せになりたいと願っている人の邪魔をしてくるものを退治してスムーズに成功を収められるようにとりなしてくれます。妬みや嫉妬、因縁などといったものも断ち切ってくれます。毘沙門天は北方を守っていることから、悪いものが入ってこないように守ったり、悪しきものを退散させたりする力も強いと考えられます。

七福神の中で唯一甲冑を身にまとい武将の姿をしています。左手に宝塔、右手に棒を持ち昔より武人や商人などから信仰を受けています。他の七福神たちが柔和な顔をしているのに対し怒っているかのような表情が印象的です。邪気を踏みつけている姿も七福神の中では特殊なイメージです。

毘沙門天は商人からの支持もあります。同じく商人からの支持を集める商売繁盛の恵比寿天については下記の記事も参考になりますので読んでみてください。

毘沙門天が祀られている神社・お寺

善國寺(東京)

善國寺が設立されたのはおよそ400年前の1595年、桃山時代にまで遡ります。二条関白昭実の実子で、父の関係で徳川家康と親交のあった佛乗院日惺上人が初代の住職でした。何度か火災に遭いながら現在の地、神楽坂に移転してきたのは今から約200年前のことでした。

時代と共に毘沙門天への信仰は盛んになりました。昭和20年の東京大空襲にも火の海と化しましたが、同じく昭和26年は毘沙門堂を再建、46年には本堂毘沙門堂が完成し復興しました。今もお参りをする人が絶えず、初詣や厄除祈願、七五三祈願、新生児育成祈願、地鎮祭などの御祈祷や結婚式をお願いすることもできます。

善國寺

住所:〒162-0825 東京都新宿区神楽坂5-36
電話:03-3269-0641
ホームページ:https://www.kagurazaka-bishamonten.com/

鞍馬寺(京都)

奈良時代末期の770年、鑑真和上の高弟の鑑禎上人は導きによって鞍馬山を登山し、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられ、それが縁で毘沙門天が祀られたのが鞍馬寺の始まりと言います。一説には鞍馬山は650万年前ほどに護法魔王尊が金星からやって来たとも言われています。


鞍馬寺では5月の満月の夜にウエサク祭と呼ばれる秘儀が執り行われています。すべてのものの目覚めのために天から強いエネルギーが降り注ぐと言われ、一般にも公開し、目覚めと平和を祈っているそうです。

鞍馬寺

住所:〒601-1111 京都市 左京区鞍馬本町1074番地
電話:075-741-2003
ホームページ:http://www.kuramadera.or.jp/

朝護孫子寺(奈良)

1400年余り前に聖徳太子と物部氏が仏教を受け入れるかどうかで争っていました。物部守屋を討つため、聖徳太子がある山に入り、戦に勝つため祈ると毘沙門天が現れ勝つための策を授かりました。その日というのは偶然にも寅年、寅の日、寅の刻でした。

戦の結果聖徳太子が勝利し、その山を信貴山と名付け、以後信貴山の毘沙門天は寅に縁があるとされ今に至っています。朝護孫子寺と言う名前は、醍醐天皇の病気回復を命蓮上人が毘沙門天に祈ったところ、たちまちよくなったので、朝廟安穏、守護国土、子孫長久の祈願所としてこの名前を賜ったことが由来とされます。

朝護孫子寺

住所:〒636-0923 奈良県生駒郡平群町信貴山
電話:0745-72-2277
ホームページ:http://www.sigisan.or.jp/

本山寺(大阪)

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#本山寺 #美咲町 #三重塔

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本山寺は飛鳥時代の呪術者で修験道の開祖と言われる役小角が開き、770年ごろに開成皇子が建設したと言われます。境内には聖観音立像、毘沙門天立像などの重要文化財や、足利義政が愛用したという葡萄日月硯などが保存されています。

1582年の山崎の戦の際に焼失しましたが、豊臣秀頼が再建したり徳川綱吉の生母の桂昌院が改修したりして現在に至ります。現在の中の門は伏見桃山城から移築されたと伝えられています。

本山寺

住所:高槻市大字原
電話:072-687-9921
ホームページ:なし

神峯山寺(大阪)


神峯山寺は、日本で最初に毘沙門天が安置されたと言われています。本山寺と同じく役小角が開山し開成皇子が建設したと伝えられています。本山寺は神峯山寺の奥の院とも言われますが別寺ともされており、明確にはわかっていません。本尊は三体の毘沙門天で構成され、いずれも秘仏となっています。

第一の本尊は毘沙門天で皇室や幕府が手厚く信仰し、第二の本尊は兜跋毘沙門天で楠木正成や松永久秀などの武将や大坂商人が信仰した。またこの兜跋毘沙門天のみ秋の大祭の際に開帳されています。第三の本尊は双身毘沙門天で天台密教本来の作法が正式に伝えられています。

神峯山寺

住所:〒569-1051 大阪府高槻市原3301-1
電話: 072-688-0788
ホームページ:http://kabusan.or.jp/

自分と相性のよい神社があるのをご存知ですか?その相性の調べ方やパワースポットを紹介しているサイトを見ていくべき神社を見てみませんか。

毘沙門天に関する逸話や伝説

聖徳太子に関する逸話

かつて聖徳太子は仏教受け入れに関して保守派で神道推進の物部氏と対立関係にいました。対立は激しくなり武力衝突にまで至り、最初は聖徳太子側が優勢だったものの次第に物部氏が巻き返してきました。そこで聖徳太子が必勝祈願を毘沙門天にした結果、物部氏に勝利したという逸話が残っています。

上杉謙信に関する逸話

上杉謙信は毘沙門天を篤く信仰しており、軍の旗印にも「毘」の文字を使ったり、春日城の本丸近くに毘沙門堂を建ててそこに籠ったり、自分を毘沙門天の生まれ変わりとも信じていました。上杉謙信が祀った毘沙門天像を、泥足毘沙門といいます。

坂上田村麻呂に関する逸話

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坂上田村麻呂 (758年から811年)#坂上田村麻呂#絵画 #日本史 平安時代のはじめのころの武官。793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で功績を上げた。その後、桓武天皇から征夷大将軍に任命され、敵対する蝦夷を討った。802年に胆沢城、803年に志波城を築き、 朝廷の支配地域を広げた。坂上田村麻呂は、20年間に3回東北地方の蝦夷征伐を行った。801年の遠征でも成功を収めます。802年再び、坂上田村麻呂は東北に赴くと、4月頃にはアテルイとモレの500名が降伏して、 夷賊(蝦夷)の討伏が完了したようです。アテルイとモレは平安京へと連行されますが、坂上田村麻呂は助命嘆願を行ったとありますが! しかし、平安京の貴族たちは「野性獣心」だと反対し、802年8月13日に河内国にてアテルイとモレは処刑されました。ちなみに坂上田村麻呂は京都の清水寺の本堂を大規模に改築した人物(創建した)としても知られ、 805年には坂上田村麻呂が寺地を賜り、810年には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となっていす。 晩年は参議として国政にも参加した坂上田村麻呂ですが、811年5月23日、54歳で生涯を閉じました。 征夷大将軍は、東北地方の蝦夷を征伐するためにつかわされた遠征軍の総指揮官の名称で、 平安時代に坂上田村麻呂などが任命された。鎌倉時代に源頼朝が征夷大将軍に任命されてからは、江戸時代まで代々の幕府の将軍を言うようになった。#歴史

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坂上田村麻呂は日本初の征夷大将軍です。鬼退治のヒーローとしても知られています。帝の命により、当時伊勢国の鈴鹿山で大暴れしていた大獄丸と言う鬼を退治しに行きます。しかし大獄丸は神通力を操り、暴風雨や雷、火の粉などで田村麻呂らをひるませます。

田村麻呂が毘沙門天と千手観音に祈り、結果大獄丸は退治されました。でも大獄丸は黄泉の国から蘇って来て田村麻呂に戦いを挑みます。再び毘沙門天の加護があり、田村麻呂は大獄丸の息の根を止めることに成功します。その遺骸は宇治の平等院に封印してあると言われます。

歴史上に面白い話は多いですね。日本神話に出てくる守護獣や動物神についても興味深い話があります。日本神話の知識を広めてみませんか。

毘沙門天の画像やイラスト

毘沙門天のイラスト

イラストというよりも御影札です。上は東京の護国山天王寺のもので、下は神奈川の蓮勝寺のものです。御影札とは、お遍路は一般的に外からのお参りとなり本尊と接することがないため、拝謁したという代わりにご本尊の写しをいただけるというものです。納経帳に朱印を押してもらう時に一緒に渡されることが多いそうです。

毘沙門天の画像

上は富山の慈光院、中は山形の善宝寺、下は奈良の東大寺にある毘沙門天の像の画像です。それぞれに個性がありますがどれも恰幅がよく、ちょっと怖い感じもしますが威厳もあるように見受けられます。ご利益の通り、悪いものも払ってくれて金運に導いてくれたり勝負事にも勝てそうな雰囲気が漂っているようです。

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毘沙門天のご利益を受けて輝く未来へ進もう

毘沙門天についてそのご利益や由来、逸話、祀られている神社などを見てきました。画像は待ち受けとして使うと効果がありそうでおすすめです。一見怖そうな毘沙門天ですが味方に付いているとこんなに頼もしい神様もそういないと思います。ご利益を受けてよりよい人生を進んでみませんか。

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